favorites of fh9xif
Re: 違うんだ
いまみたら |
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Reply sa.yona.la |
>> 思い思いのご利用方法で sa.yona.la をご満喫ください。
> 息抜きするにはいいけど、満喫するとこじゃないと思うんだ。
今見たら変わってます!!
思い思いのご利用方法で、sa.yona.la で一息ついてください。
(そして一息どころではなく浸っているおれ)
Re: 日本文化センター
http://xmny3v.sa.yona.la/39 |
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秋就活をちょっとだけやるんです
いまからESかきます
どうしてもうかりたい・・・
Re: メトロポリタン美術館
ベッドサイドマルチメディア |
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鍵もリモコンも読みかけの本も携帯電話も全部そのへんに置いておけばどんどん便利になっていくのに、なんでみんなわざわざしまっちゃうんだろう。
ごめんなさい片付けます。
Re: そんな俺は経済学部
象徴の貧困 |
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どんな人も、他人の言葉で自分の言葉を練り上げる工程があるはず。たとえば「受け売り」もその一つ。 どのような「他人の言葉」を取り入れたか、それが個性であり、「自分の言葉」を作るんじゃないかな。
それは確かに同意です。
個性があっても、それを語る言葉は外から取り入れなきゃならないですしね。
ただ、今のウェブを見ていると、他人の言葉を取り入れる「個性」そのものが危うくなっているような気もします。
「物があふれているのに心が満たされない」と誰もが口にしながら、そこから一歩も進めないのはなぜなのか。それは現在の資本主義がまさにその不満を搾取するからである。「本当の自分」「私らしさ」を求めようとすれば、市場はすかさず「あなただけの」「特別な」商品を提示してくる。このような消費、欲望の規格化を繰り返すうちに、その人の市場での位置も価値も定まり、やがて同じような嗜好を持つ者同士の自閉的な、自己批判能力に欠けたグループがあちこちにできあがる。それはもはや「われわれ」と呼べるような共同体——特異な「私」たちの拮抗によってダイナミックに姿を変えていけるような集団ではない。
格差社会や成果主義の結果、朝の電車内では日経新聞と「出来る人間の仕事術」のような本を読んでいるサラリーマンが増えている。
個人の多様性が尊重されながら、その背後では社会的淘汰圧の中で個人を容赦なく比較する。
特にウェブ。
今、先進国では物余りの時代だという。多様化の時代ともいわれる。基本的な物質的欲求が満たされ始めたため、人々のニーズは多様化し、マスプロダクションで生産されたものは売れなくなってきているのだ。人々は物を買うという行為の中でも、自分らしさを追求し始めた。自分らしさを表現し始めたということだ。
↑では、Web2.0といわれる昨今においては、全ての人間がその創造性を発展させ、自己表現を行うと言ってますが、それはひっくり返せばそうした「自己表現をしたがる事」自体が、作られた「象徴」としてある種の「流行」になってしまっています。
流行を嫌う人間は、現実社会にもウェブにも矜持を持って存在することが出来なくなりつつあるのではないか、という危惧が自分にはあります。
論文 |
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学問 |
自分は学者ではない。あくまで素人の学徒でしかない。
だが学術論文を目にする事の多いせいか、そこら辺に対して思う事がある。
言葉とは相互理解と物事の定義の為に用いられる。
だからある言葉はお互いがその意味を共有している必要がある。
特に学術論文となるとそこには正確性が求められるので、ある「言葉」の意味は極めて厳密なものになる。
そして学者は皆、そうした厳密な言葉で、自分の考える世の真理を説明している。
だが本当にそんな「他人の言葉」でその人の考えを正確に伝えられるのだろうか。
もちろんそれを正確に伝えるのが学者の力量であると言われればそうかもしれないが、
そもそも言葉が完全に事物を表象しきれるかというとそれは不可能だ。
そんな厳密だけれど不完全な言葉で自分の思考を表象できるのかといえば、それはまず無理と言って良い。
言葉というのはニュアンスの問題がある。
例え口語的でいい加減な表現でも人と人の間では理解が出来る。
むしろ自分の考えは自分の言葉で伝える方が、相手に正確に伝わると感じる事が多い。
相互理解を完璧にしようとして、厳密な言葉で自分の考えを語ろうとすると、かえって取りこぼしが生じてしまうというのは、ある種の皮肉なのかもしれない。
そしてウェブもまた、他人の言葉で他人に受け入れられる事を言う人間だけが、「価値のある人間」だとされる。
もちろんその事を完全に否定するつもりはない。
けれど、自分の言葉で自分の考えを純粋に伝える人間を「価値がない」と言われれば、それはおかしいと思う。
「他人の言葉で自分を語るな」
とあるアニメからの受け売りだが、Web2.0と言われるウェブの中で、自分の言葉で自分を語っている人間は、それほど注目を浴びていない。
それでも自分は、自分がここにいるから、自分の言葉で自分の存在を示す。
時間 |
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昔物理の時間に疑問に思ったのが
「時間とは線形の次元なのか」
という事だった。
我々が時間と呼ぶ次元、尺度は総じて線形をしている。
だからこの現実世界の時間について考えるときも、無意識的に線形のスキーマで捉えている。
でも時間って本当に「線」なんだろうか?
時間とは事物の「変化」である。なら「変化」は必ずしも線形でなければならないのか?
例えばルーターのライトを見てみると、ある光の点が明滅しているのが分かる。
我々はこの明滅を理解しようとすれば、「線」形のグラフを想像し横軸にtをとって縦軸に輝度をとることになる。
でも、実際のライトは、あくまである「点」が「変化」しているに過ぎない。
つまり「線形の時間」とは私達の脳が生んだ認知的現象だ。認知特性と言っても良いかもしれない。
そうしたスキーマが主観的な私達の「認知世界」で妥当性や整合性を持っていたとしても、
客観的な「現実世界」に適合できるかどうかは分からない。
つまり私達の脳内の「時間」と現実世界の「時間」の間には、我々の認知し得ないような差があるのではないだろうか。
もしかしたら、二次元の線じゃなくて一次元の点だったり、あるいはもっと違う次元体系なのかもしれない。
そんな懐疑を抱いていたら授業が終わってしまい、結局その学期のテストは散々だった。
自分を変えるという事 |
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絶望 |
自分は人として駄目だと思う。
そしてよく「変わらなきゃ」と強く思う。
実際そう思って過去に何度も自分を変えてきた。
だが、今になって気づく。
自分を変えるのは、人生をリセットするような物だと、
そして、人生をまっすぐ生きてる人に対して、自分は相当遅れてしまっていると。
要は梯子と螺旋階段の差みたいなもの。
同じ距離進んでも、梯子の方がずっと上に行ってしまっている。
そして自分はもう、その進んだ距離の差を詰められるような年齢ではない。
もうどうしようもないのだ。
だから今も、まっすぐに生きて輝いている人を見ると、
その人を正しいと感じる影で、心の何処かでは羨ましくも思ってしまう。